ゆめ妊娠中期胎動 つわりから開放20週目に入ってすぐの忘れもしない六月十二日。「ポコッ」とおなかが動いた。待ちに待った胎動である。私の場合はグニョグニョと胎児がおなかの中を移動するような動き方ではなく、本当にペコペコと中から弱く蹴っているような感じだった。「グニョグニョなら男で、ペコペコなら女なんだって!」と言っていた友達がいたが、果たして本当なのだろうか。男の子だろうが女の子だろうが、日に日に胎児は大きくなり胎動も強くなって、そのうちおなかの中に大蛇を飼っているかのごとくグルングルン動きまわり、皮膚の上から見ても、どこを蹴られたかあるいは肘テツを食らわされたかわかるほどボッコボコあばれるのは一緒だ。 自分の意思とはまったく関係なく動くおなかはずいぶん気持ち悪いものだったが、その気持ち悪さはなかなか楽しいものだった。夜寝る前などにジーーッとしているとわかる。まだ小さく、力は弱いながらも、これは赤ちゃんの元気のサイン。それが何とも愛しかった。まぎれもなく、私のおなかの中で赤ちゃんは生きている。 おなかが目立つほど大きくなったのもこの頃だった。大きくなったおなかに引っ張られて足の付け根あたりの靭帯が痛かった。この頃一時的に少食だったのも、急激に大きくなった子宮が胃を持ち上げていたから食べられなかったのだ。 胎動を感じて以来、私は急に元気になった。つわりからまさしく開放!という感じである。電車にも乗れるようになった。パスタも食べられるようになった。そして安定期を実感する私。ご飯も作るようになり、遊びに出かけるようにもなった。 妊婦は妊婦らしく!? ギリギリまでマタニティー服を着たくない!と思っていた若き私は、普通のゴムのスカートなどをはき、ヒールこそ低いものの、サンダルを履いたりしていた。 おなかはもう目立っていたが、電車で席を譲られたのは一度だけ。ほんの二駅の間だったが、そのサラリーマンは私の目には理想の王子様のように映った。初めての出来事、しかも派手な格好をしていた私は、「まあ妊婦がそんな格好で・・・」という目線を感じる毎日だったので(言いすぎだ。誰もそこまで思っていないと思う。今思えばとんだ被害妄想であるのだが・・・)涙が出るほど感動した。本当に。しかし席を譲られたのは後にも先にもそれ一回だけ。妊娠後期はあまり電車に乗らなかったからか、それとも私が意地でも座ろうとしていたから立っていることが少なかったからなのか・・・。でも見て見ぬフリを決めこむ人も多かったのには驚いた。私なら絶対に譲る。けれども本当に本当に譲ってほしいのは、臨月近い、かなりおなかが大きくなった頃はもちろんだが、つわりの激しい妊娠初期だ。初期は残念ながら誰も妊娠中だとはわからないので、妊婦ステッカーなるものがほしい!と思ってしまった。妊娠しても仕事を続けて電車通勤している人はエライ! 後ろ姿や顔だけ見ると妊婦だと気が付かないらしく、街を歩くとナンパもされた。ホストもうるさかったし、キャバクラのスカウトも何度もされた。 男「飲みにいこうよ。」 私「いや、妊婦だし。」 男「あ・・・」 男「遊びにいこうよ。」 私「おなか見ろよ。」 男「・・ごめん。」 ああいう人達って顔や服装しか見ていないんだとよくわかった。 かゆみとの闘い そんなこんなで、季節は夏。 ここ最近は毎年海に行きまくり、海外旅行など楽しんでいた私。今年はおなかの赤ちゃんとの違う楽しみが・・・あまりなかった。やはり遊びまわっている友達が少しうらやましい。今年は新しい水着はもちろん、浴衣も買おうと思っていたのに! そして暑い。とにかく暑い。いつもはあまり汗をかかない体質の私。それはそれで体に悪いのだが、今年は汗がたれる。たれる。こんなに汗をかくなんて。そしてかゆい。あせも、である。今思えば妊娠性湿疹?足の膝の裏と、胸のまわりが特にひどかった。ブラジャーをつける時はミニタオルをはさんでいないと耐えられない程かゆかった。胸のまわりの湿疹はとても嫌な気持ちにさせた。このまま痕が残ったらどうしようと不安だった。こんな体じゃ来年から水着が着られない・・・。 ただただ夏が早く終わればいいと思っていたが、秋になるという事は出産が近いという事。それはそれで緊張、である。あせもには市販の薬を塗っていた。私の膝の裏と肘の裏、胸元は薬で常に真っ白だった。 市立病院 私が通っていたI先生のクリニックではお産はしていないので、市立病院へ紹介してもらう事に。どのような病院で出産したいのか・・・それは妊婦が決める大切な事。大きく分けて総合病院か個人病院か。設備が大きく整っている総合病院、アットホームなお産ができる個人病院。どちらにも長所、短所がある。しかし初産婦の私はどちらがいいか、よくわからない。絶対こうしたい!という希望なども特にない。ただ、必ずしも体が強い方ではない私は、もし赤ちゃんに何かあった時もためにNICU(新生児集中治療室)が併設されている大きな病院の方が安心かなと思った。そして大学病院は学生たちに見られながらのお産なんて嫌だという理由から頭になかった為、家から近くて最近きれいになった市立のT病院に決めたのだった。 臨月まではI先生に通うのだが、一度、T病院にも行って分娩予約などをしなくてはならなかったので24週(7ヶ月目)に入った時にT病院へ行った。この日、初めてドップラーで赤ちゃんの心音を聞いた。部屋に響くその音は速かった。胎児の心拍数は120~160という事で、速い。 「分娩予約をしたい」と言うと、受付のお姉さんに「10月末はもういっぱいなので先生の判断で・・・」と、「多分ムリ」みたいな口調で言われ、焦った。しかし先生は 「えー、そんなこと言ってた?いけるよー。そんなの断るなんてできないよー。」 と笑っていて、ホッとした。かくして無事このT病院でお産する事が決まった。 女の子です I先生は「性別はもう少ししたらわかる。」と言っていたがわかっていそうな顔をしていた。でも教えてくれなかった。T病院のS先生は、I先生よりだいぶ若かった。 「性別はもう聞いているのかな?」と言われ・ 「まだなんです。どっちですか?」と聞くと、 「女の子だろうな~。」との事。 女の子・・・。私は昔から女の子供が欲しかった。主人も「女の子がいい」と言っていた。でもなぜか妊娠してから周りに男の子だ男の子だと言われまくっていた。その理由は、私には男の子がいそうなイメージだとか・・・。意味がわからないが、そう言われ続けていたせいで「男の子もいいな」と思い始めた矢先だったので、先生に「女の子」と言われ、かなり鈍い反応をしてしまった。しかし病院を出て主人に報告し、母に報告し、二人とも喜んでいて、私も嬉しさがこみ上げて来た。 けれども、エコーを見て女の子と言われた場合、実際には男の子が産まれることがあると聞いていたので、「多分、女の子」と思う事にした。結局別にどちらでもいいのである。しかしこの後すぐに、初めてピンク色のベビー服を買ったのだった。 無謀にも海へ 暑い日々が続き、私たちはというと引っ越しの準備に追われていた。身重の体で家具屋巡りをするのは大変だった。そんな時、私はどうしても海に行きたくなり、主人に懇願して淡路島へ連れて行ってもらった。 「ゴクミも大きいおなかでビキニ着て泳いでたもん。」 しかしここは日本。そして私はゴクミではない。タオルを巻きつけて人目を避けるように浜で座っていた。無謀にも泳ごうとして浮き輪を装着し海へ入ったが、怖いのと周りの視線が恥ずかしいのとで、すぐに上がった。 疲れてはいけないという事で、浜での滞在時間は一時間半。帰りの車の方が長かった。でもその一瞬でも「今年の夏も海へ行けた。」と大満足で、楽しい夏の思い出の一ページとなった。 |